少しずつ内容が意識という部分から波動という部分に移っていくのですが、それはこの二つは切っても切れない関係にあるからです。
一言で「気」と言ってしまうと、多くの人は前に書いたように「気」=「力」や「プラーナ」として考えがちです。
中国医学の考え方では、身体の中にある目には見えない、また解剖しても肉体の部分として見つけることが出来ない径脈が生命力に関係する「気」を運ぶ役割を果たすと捉えられています。
「気」と同じような意味を持つ言葉で、サンスクリット語での「プラーナ(prana)」、ハワイ語での「マナ」、ラテン語での「スピリタス(spiritus」、ギリシア語では「プウネマ(pneuma」、といった呼ばれ方があります。
それぞれの国の言葉でも身体を維持するための「生命力」として考えられているわけです。
またこれらの言葉は「呼吸」に関係し、命を与えるという意味で神秘や聖なるものとして捉えられています。
前の部分でハワイアンのフナの教えは、古代エジプトの叡智と酷似していると書きましたが、ヘブライ語のルーアハ(ruah)」とハワイ語の「アハ」という言葉が、それぞれ息を吸い込む意味を指しているのは面白いと思います。
様々な国の言葉で「気」と同じような意味を持つ言葉は、は私たちの「生命力」に関係する目に見えない「力」や、身体を維持するためのエネルギー源として捉えられています。
しかし単純に「気」が力や生命力と理解するのは、「気」という意味が持つ「力」の側面でしかありません。
実際にはそれ以上のものなのです。
言葉は子供の頃から親や周囲の人が話す会話の中で使われる言葉を聞きながら、何も考えずに無意識的な状態で習得して来たものが基本になっています。
学校に入るともっと多くの漢字からヴォキャブラリーを学ぶようになり、日本人が最低限知っていなければならない漢字を学び始めます。
小学校の6年間で学ぶ漢字は、1年で80字、2年で160字、3年で200字、4年で200字、5年で185字、6年で181字、6年間の合計で1,006字だそうです。
一般的な日常生活で使う常用漢字は1,945字。普通に会話を通じて意志の疎通を行うためには、最低限2,000文字、想的にはJISの第二水準で約4,000字を知っている必要があるわけです。
漢字は一つで何かの意味を表した意匠図形ですが、「気」+「功」のように別の漢字と組み合わさって「気功」という言葉ように多重構造の言葉になると、約5万語もの意味を知っていなければいけないと言われています。
私たちはこれだけの語意を学んでくるわけですから、一つ一つの意味を深く言語学者の用に細かく掘り下げて覚えるのは大変です。
私たちが気軽に使っている言葉遣いは表層的なものが多いということです。
大陸から漢字というシステムが輸入されて作り上げられている日本語の中には「気」に関係する言葉遣いが沢山あります。
例えば「気になる」「気が済まない」「気が焦る」「気を失う」「気がめいる」「元気になる」「気が落ちる」「気分が悪い」「機嫌が良い(気源が良い)」「気性が荒い」「気が弱い」などと言う使い回しです。
私たちはこれらの言葉を日常的に使っていますが、実際には一体どれくらいそれらの言葉の意味を分かっているのでしょうか?
一般的に「気」という言葉は生命力という力として理解されがちですが、それだけではなく気になる」「気が済まない」「気が焦る」のように、人間の意識の状態、精神の状態を表す言葉でもあるのです。
例えば「気になる」という言葉ですが、これは何かのことが頭に引っかかって回転を始めて精神的に落ち着きがなくなる意識状態を表しています。
「気が済まない」も同じように精神的な憤りや怒りが収まらない意識状態を表しています。
「気が焦る」というのは内面の中で焦りが膨らんでいる意識状態です。
「気を失う」は意識がなくなる状態です。
「気がめいる」「気が落ちる」が感情が落ち混んでいる意識状態です。
「元気になる」は気分が良くなって快適な意識状態です。
この「気」という言葉は、「力」という意味だけではなく、その多くの場合は人間の意識の状態を表している場合が多いのです。
これは「気」という言葉には生命力の状態を指す「力」という意味と、「意識の状態」を表す二つの意味が重なっているということです。
これを分かりやすく書き直すと「気」というのは、「精神の力」という意味になります。
そして「気」というものを「波動」に置き換えると、「波動は精神の力」、「精神の力は波動」ということになるのです。
この「気」というものが単純に生命力という思い込みが外れて「気」そのものの意味が分かってくると、「気」というものには「精神的なバランス」に関係する種類があるということが見えて来ます。
一言で「気=波動」と捉えると意味が狭過ぎるのです。
「気=波動=意識」という考え方の図式に慣れて来ると、私たち人間の「意識」の構造がいかに「気」に関係しているかが分かってきます。
波動である気は、同じく波動である意識を運ぶからです。
そして「生命力としての気」と「精神力としての気」と「意識としての気」の動き方が分かり始めると、気を力として操る気功的な捉え方を超えて、さらに深く多角的に「気を操る」ための方法が見えて来るのです。
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