この展示会は2004年にスイスで始まり、ドイツに移動して、2005年からアメリカの各地で行われて来たもので、2013年の1月6日で終わったシアトルでの展示会がアメリカ・ツアーの最後でした。
青年王ツタンカーメンの墓は、その他のファラオの墓と違って墓荒らしの被害に合うこと無く発見されたので、かなりの数の埋葬品が残っています。
しかし会場でどれだけの数が展示されてるのかを事前に知ることは出来ませんでした。
シアトルに着いた時には、始まってから一ヶ月近くが経っていたのですが、子供達が夏休みに入るということも重なっているのか、会場内は想像を絶する人混みでした。
展示会場に入る前に30~40人くらい入る小さな部屋に誘導され、そこで考古学者が活躍する栄華インディアナジョーンズの主演、ハリソン・フォードの声による短いイントロダクション的なビデオから始まりました。
とにかく物凄い混雑で、余裕の空間で鑑賞するのは難しい条件下です。
照明は基本的に薄暗い設定です。
フラッシュを焚かなければ写真撮影は許可されていたのですが、そんな最中で写真を沢山撮影しようという目論みも難しいものでした。
30分おきにグループで入館して来るので絶えず後ろから30人から60人くらいの人の群れが追いかけてくるのです。
一つの展示物にも沢山の人が群がってしまうので、物によってはユックリ鑑賞しながら写真撮影する暇も見つけにくいのが常でした。
また人が群がる展示物とそうでないものが結構はっきりしていたことも興味深かいものがありました。
誰かが一つの展示物に食い入るようにして見入っていると、周囲の人たちもそれに釣られるかのようにして隣に立って見入ってしまうのです。
一つの展示品の周辺に人が集中してしまうと間近で観れないので、人の群がっていないコーナーに移動して、頃合いを見計らって再び戻って来るという繰り返しでした。
シアトルに到着して偶然にエジプト展に出くわす前は、Blogでエジプト系の内容を書き始めるに当たって色んな資料を読んだり、その他の発掘品のイメージや、古代神殿に刻み込まれているヒエログリフなどの写真を集めたりしていました。
その理由は、アセンションを理解するための秘密の鍵が神殿そのものや石像などにも明確に刻み込まれているように思えたからです。
そんな時期に知り合いのチャネラーさんがエジプトに三ヶ月ほど滞在していたので、その方に頼んでフィラエ神殿の写真を可能な限り撮影して送ってもらうことも頼んだほどです。
しかし自分の眼を通して撮影した写真ではないのと、遺跡の隅から隅までが奇麗に写真内に写されているわけでもなく、画像数の荒いデジタルイメージからは思った程の〝何か〟を受け取ることは出来ませんでした。
頼みの綱はインターネットでの検索のみで、ツタンカーメン王の墳墓から発見されたその他の品々にも秘密の鍵があるかもしれないと思い、とにかく見つけられるだけのイメージを集め始めました。
最終的にツタンカーメン王の墓から発見された総ての品々が当時の白黒の写真で収められているアーカイヴまで辿り着きました。
その他のファラオたちの遺品も調べてみたのですが、そんなに沢山の遺品が発見されているわけではないことが解ったのは意外でした。
その他のファラオ達の墳墓の中にも、きっとツタンカーメン王の遺品のような数々の品々が一緒に埋葬されていたに違いなく、墓荒らしが根こそぎ盗んでしまったというのが歴史学者の見解です。
しかし実際にどうだったのかは推測の域を出ることはありません。
その理由は、代々のファラオの交代劇は場合によっては策略で殺してしまう背景も多々あるからです。
ツタンカーメン王の死も科学的に病死だと解る前は殺人説が有力候補でした。
自分がファラオに伸し上がるために王を殺してしまうというアイデアがあるのなら、先代のファラオの遺品の数々も後のファラオによって奪われていても不自然ではありません。
新しい王家そのものが墓荒らしだったという考え方もあり得るということです。
しかし、真実は歴史と砂の中に消えたまま今後も解き明かされることはないでしょう。
エジプト系の内容は歴史的な史実が関係するので、変なことや史実的に間違っていることを書いては問題になると思い、基礎知識として必要と思われる内容の様々な記事を読み進めていました。
最初は長いエジプト史の中でのファラオ達の変遷などに関して興味は薄く、リサーチの内容はそこが焦点ではありませんでした。
しかし結果的に代々のファラオが変遷する時代背景と宗教的な変革、そして死者の書の姿が変化することがが解り始めたので、長い古代エジプト史の全体の流れに沿って進化する葬祭文書の在り方を把握する必要があるのだと痛感しました。
古代エジプト人の宗教的な世界観や、その捉え方、神殿や神像、ファラオの遺品などという宗教芸術の表現のされ方は、時代背景によって違う姿があります。
その中で主にリサーチしていたのが神々の種類と構造などに関する内容です。
「聖なるハワイイ ハワイアンのスピリチュアリティ」を書き始めた時も神様の種類が多くて把握するのに困難さを要しましたが、エジプトの神様も輪をかけて難解です。
全ての神々をこと細かく勉強する必要はないと思っていましたが、一人の神様に他の神様が連鎖反応のように関係しているので、結果的に可能な限りの情報をダウンロードして消化するという状態でした。
時代や場所によって信仰される神々の勢力は違い、全体的な流れとして捉えようとすると統一性に欠けると思えるほどです。
日本の神道の世界で、全国的に主神は同じでも、地方によって身近な神に対する関わり方が違うように、古代エジプトでも同じようにそれぞれの場所に建立された神殿によって地方神の置かれ方が違うのです。
古代エジプトの神々に関する事柄を読み進めていて疑問に思ったことがありました。
それはエジプトの神々だけに限られたことではなく、様々な宗教の中に現れる〝神〟という存在のことです。
古代よりも遥かに文明的に進化した現在でも世界中の人々の生活の中に神々は生き残っています。
そこで〝神様〟という定義そのものを考えました。
信心深い人々にとって神と言う存在は一体なになのか?
世の中には宗教芸術と呼ばれるものがあり、神々の姿は像や絵画などで表現されています。
一般的には人間の姿に似た表され方ですが、場合によっては動物を擬人化した姿だったり、極端な場合は〝物〟が神様扱いされることもあります。
普通では眼に見えない神々という存在は、人間の姿に似せて表現されることが一般的だということです。
〝形の無い存在〟を像や絵画という形で表現することによって、人間の世界に近づけさせているのです。
神々を信仰するという心理と動機を考えた時に浮かんで来たのが〝見えない世界からの働きかけ〟でした。
神々を信仰する理由の最も本質的な意味合いは〝眼に見えない力〟です。
人間を超えた超自然的な力が神々の在り方です。
「困った時の神頼み」という諺(ことわざ)のように、自分を超えた存在の偉大な力を求める、その存在を崇めるというのが信仰の本質だということです。
神々は人間世界とは違う次元に置かれているわけですが、人間世界でも神々と呼ばれる人々が登場し、その顕著な例が〝王様〟という位置に立つ人々です。
古代世界では、王様を生神様として崇める文化圏が多く、日本の場合もそれと同じく、天皇が国民の象徴になる前は、生きた神様として扱われていました。
そして古代エジプトで生き神様の位置にあったのが〝ファラオ〟たちです。
続く
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