ツタンカーメン王の父アクエンアテンの巨像
新王国時代 第18王朝 アクエンアテン(1372~1355 BCE)
カルナック ゲムパアテンの東の神殿
展示会場の中央に聳えるように立っていた偉大な風格の巨大な石像は、第18王朝の10番目のファラオとして17年間に渡って王位に就いていた、ツタンカーメンの父であるアクエンアテン(アメンホテプ四世)の偉大さを現したものです。
2010年に行われたDNA鑑定により、ツタンカーメンはアクエンアテンと彼の妹であり妻でもあった女性の間に生まれた息子だと発表されました。
アクエンアテンに関する研究の中で最も意外だったのは、彼の髪の毛は赤毛だったことです。
P.F.セカルディ教授と彼の研究チームによってラムセス二世の髪の毛は黄色がかった薄い赤毛に染められていたことが判定し、彼の毛根の検査結果では、赤毛だったと判明しています。
アメンヘテプ二世、トトメス四世、18王朝の王の副官だったイウヤとその妻チュウヤ、ハトシェプスト女王は赤毛の白人種だったと判明しています。
アメンホテプ四世(アクエンアエテン)の像は古都ルクソールのカルナック神殿群の中にある彼の神殿、ゲムパアテンの中に聳えていた柱像の中の一つです。
柱像には基本的に三つの大きさがあり、最も大きな柱像の高さは12.75m、小さな柱像は8.55mだったとされ、この神殿が発見された時には28個の柱の基盤が出現し、25個の柱像の残骸が発見されています。
それらの柱像の中で表されたアメンホテプ四世時代の頭とは違った種類の冠で表現され、それぞれの冠の違いはアメンホテプ四世がアテン神の側面を現すことを望んでいたことを現していたのであろうと解説されてます。
この柱像では一般的なネメス冠の上に、ダブルクラウンが載っていますが、これは王自身が太陽神を代表する生き神様であることを言及したものです。
クハト冠の上にダブルクラウンが載っている柱像は、太陽の力による王の若返りと記念祭。
ネメス冠の上に四つの羽が立っているものは、太陽の活動的な側面を現すシュー神の力を受け取ることを祈願したものと解説されています。
最も印象深いところは、その他のファラオの像が描いている顔の形とは完全に趣が違っていることです。
縦長の顔で頬はこけ、顎が突き出ていて、眼は細長でややつり上がった眼の表現は、実際の人物像ではなく、芸術的なスタイルとして誇張されて描かれているそうです。
顔だけでなく、壁画では後頭部が伸びた変形頭蓋で手足は異様に細く、下腹が丸く膨れているスタイルで表現されています。
しかし後頭部が異様に伸びている頭の形は大げさに誇張された表現ではなく、X線写真やCTスキャンで現れた彼自身の頭の形を表していると解説されていました。
アテン神/ラーホラクティ
アクエンアテンが信仰していたアテン神は、元もとラー神の側面の一つで、先が手の形をしている沢山の光線が太陽のディスクから伸びている姿で表されます。
アクエンアテン王が家族と一緒にアテン神から発せられる光線を受け取っている光景を描いた石盤では、太陽のディスクからアンクを首に下げたウラエウスが描かれています。
アテン神が頭角を現し始めたのはアクエンアテンの父、アメンホテプ三世の時代で、この頃にはすでに広範囲に渡って信仰され、ラー神と同じように隼の頭をした神様で描かれています。
そしてファラオの代がアメンホテプ四世(アクエンアテン)に移るとアムン神に代わって主神の位置へと昇ります。
アテン神に関する解説で最も興味深い内容は、アテン神の起源です。
アクエンアテンが築いたアマルナ時代では〝総ての王〟として崇められますが、初期の形態は〝二つの地平線のホルスであるラー〟と訳される、地平線(または水平線)で喜ぶ神、ラーホラクティです。
ホライゾンというのは一般的に水平線または地平線と訳されますが、語源のギリシャ語では〝境界〟または〝境界線〟という意味です。
ラーホラクティはアテン神への大讃歌の中で〝シュー神そしてアテン神と一緒に創造神アトゥム/アテム神へと溶け合う〟と謳われています。
シュー神は創世神話に登場する空気の神様で、シューという言葉は〝空虚な〟そして〝彼、地平線上に昇る者〟という二つの意味を持っています。
ここで〝地平線〟というキーワードによって〝地平線で喜ぶラーホラクティ〟と〝地平線上に昇るシュー〟そして太陽のディスクのアテン神は基本的に同じであることが解ります。
後にアテン神の形態はラー神〝二つの境界線の統治者、地平線で喜ぶ者〟へと変容します。
アテン信仰の中で最も興味深いのは、初期段階では隼の頭をした人間の姿で表されるラーホラクティだったのが変容して、人間の姿を超えた太陽のディスクとして描かれることです。
その他の神々は擬人化されているために男神と女神という〝性別〟がつきまとっていますが、アテン神は性別を超えた存在、男性と女性が統合された神として捉えられています。
アテン神の地平線 アクエタテン/アマルナ
アクエンアテンの功績の中で最も突出した采配は、王朝が発祥した都市テーベからアルマナへ首都を移し、多神教だった宗教を、太陽のディスクで象徴されるアテン神のみを信仰する世界で初めての唯一神信仰へ変えたことです。
それまでの宗教はエジプトの神々の主神であり、古代都市テーベの守護神、大気と豊穣の神であるアメン/アモン神を信仰していました。
アクエンアテンは宗教都市テーベのアメン神殿と神官たち祭司団が勢力を拡大して大きな権力を持ち続けていたので、影を潜め始めていた王族の権威をファラオに戻すために、自身が信仰していたアテン神が絶対神であり、彼のみが信仰できるものとし、ファラオである彼を神として崇めよと推奨しました。
生きたアテン神としての地位を授かったアクエンアテンは、王位についてから5年後に全く新しい首都アクエタテン (c. 1352 BC - c. 1336 BC) をカイロから南に312㎞、ルクソールから北に402㎞離れている、ナイル川の東の岸辺に建設し始めました。
建設から2年後に新しい首都として遷都し、その2年後にアテン神へ捧げられた新しい首都は完成します。
アクエタテンという名前の英語訳は〝アテン神の地平線〟。
アルマナという名前はアクエタテンが放棄された後に落ち着いたベニ・アムラン部族の村の呼び名です。
新たな都市計画は建設に急いだために総てが泥のブリックで造り上げられ、最も重要な建物だけが地元の石で化粧されています。
その他の都市と同じように北部は北のパレスで王族の住居地に当てられ、中央部に行政機関と宗教機関が置かれ、南部が居住区となっています。
宗教的な中心地となっていたのがアテン神の大神殿と小神殿で、その間に王と王家の大宮殿と住居がありました。
街の東の郊外にある崖にはネクロポリスが建設されていましたが、唯一完成していた墓は名前の無い王族の妻の埋葬に使われ、アクナテンのための墓は一時的にミイラを保持するために使われた後に、二番目の娘のメケタテンの墓として使われたと推測されています。
地位が高かった人々の墓は崖の南に建設され、一般人の墓の中の装飾もそれまでとは違った趣きに代わり、アテン神の象徴である太陽のディスクさえも描かれず、オシリス神が統治する地下世界への旅も、その他の神々の姿も無く、葬式の場面も、ナイル川の恵みを讃える農作の場面も描かれてなく、アテン神への大讃歌だけが見つかっています。
アテン神の街の寿命は約15年と短く、アクエンアテン統治17年間の中で12年と15年に疫病が流行しています。
病原はペストまたはポリオ、そして世界初のインフッルエンザの登場が示唆され、インフルエンザに至ってはエジプトで最初に発生して中東へ広がったと解説されています。
娘のメケタテンは統治14年頃に死んだとされ、提示されている死因は疫病または難産です。
同じ14年に王妃ネフェルティティが亡くなり、二番目の妻キヤ(11年・12年または16年)、13年または14年には二人の娘たちの五女ネフェルネフェルレと六女セテペンレ、そして王妃の母ティイ(1338 BC)も他界しています。
アクエンアテンの死後に王位についたのが、女性のファラオであろうと推測されているネフェルエフェルアテンで、二年と一ヶ月だけ統治して亡くなります。
彼女の次にアクエンアテンの弟または息子だったと思われているスメンクカレが王位を引き継ぎますが1〜2年の短さで亡くなり、その後にアクエンアテンの息子のツタンカーメンが即位します。
ツタンカーメンが王位に就くと統治2年に改名し、アメン神を主神にした多神教を復活させると、首都もテーベに動かされたことで実質的に放棄されてしまいます。
そしてアクエンアテンのミイラもテーベに動かされ、王家の墓の中に移されました。
異端児的な采配を振るったアクエンアエテンとアテン神を奉った首都アクエタテンが完全に放棄されてしまったのは、多神教からアテン神だけを信仰する一神教に変更し、その結果にエジプト中に疫病が広がったことが、神々の怒りの現れと結びつけられからではないかとも提案されています。
アマルナ芸術
アマルナ時代の中心地で栄えたのはアテン神信仰だけではなく、エジプト芸術の中で突出した独自のスタイルが確立されています。
アマルナ芸術の様式美は実写的で、それまでの長い芸術的な歴史の中で続いて来た便宜的な表現を打ち破っています。
その中で最も有名なのが、アクエンアテンの妻で、絶世の美女として表現されている王妃ネフェルティティの頭像です。
アテン神が擬人化されずに太陽のディスクとして描かれることから、性別を超えた存在として捉えられていたと考えられ、アクエンアテンは勇ましい男性的な姿ではなく、全体的に柔らかな趣きで表されています。
容姿の表現に至っては後頭部が長く張り出し、細い眼の目頭は少し釣り上がり、面長の尖った顎、首から胸、腕と足は細く、膨らんだ下腹で、お尻は大きく描かれています。
バランスのとれた人間の形から掛け離れた姿は、幼い子供のような体型に近いものです。
解説では実際の人物像ではなく、儀式的な様式として大きく誇張されているとされています。
明らかに一般的な人間美を表す体格とは遥かに掛け離れている不自然な体型は、生き神様として君臨するファラオの視点から捉えると〝神の存在〟の姿を模写していると考える事が出来ますが、アクエンアテンは〝人間の形をしてない〟太陽のディスクを信仰していたので矛盾が生じてきます。
壁画に描かれたアクエンアテンを3D化して、顔の大きさを石像で表されるエジプト男性像の比率に合わせると、腰の大きさは同じくらいでも背丈は低くなります。
この異形とも言える独特の美の源が一体どこにあるのか、何を模写して生まれた姿なのかは、または儀式的に何を意味しているのかまでは解説されていませんが、アクエンアテンが〝人間離れした存在〟の姿に似せて自らと彼の家族の姿を描かせ続けたことは明らかです。
アクエンアテンと共に、妻、そして子供達と一緒にアテン神から放たれる光の恩恵を受けている場面の中では、家族の親密さに強調が置かれ、異色の王はその他のファラオ達よりも、家族として表される〝血筋〟に大きな意味を見いだしていたのは間違いありません。
芸術的な表現が主に表されるのは、政治の根底に流れている宗教的な事柄の場面で、ファラオの姿と存在の在り方を残して称賛させ、生き神様として信仰させ続けることを目的としています。
歴史的な記録としての役割を果たしている、壁画、彫刻などを通じた様々なイメージの中で描かれるアマルナ時代のアクティビティーでは動きが表され、顔は上向きで、その多くは重なり合い、場面は忙しく賑やかです。
アメンヘテプ四世(アクエンアテン)とその妻ネフェルティティの間に産まれた娘の一人を現したものではないかと思われています。
後頭部の張り出し具合は信じがたい程に長く、これだけ後頭部が後ろに伸びて突き出している形は、現代人には観られない構造です。
古代エジプト人は普通の頭の形よりも、後頭部が張り出して伸びている形を美しいと思っていたと考えることは出来ますが、それでも〝なぜ伸びた頭の形に特殊な美を見いだしたのか〟という疑問を振り払うことはできません。
頭は頭脳という意味ですから、普通の人間の頭蓋骨の大きさよりも伸びている頭の形の中に、秀でた頭脳、または高度な許容量からの高次元での脳の活動を見ていたと考えるのが妥当だと思いました。
平均的な頭蓋の形とは大幅に違った形を別の視点で捉えると、古代のファラオ達の脳は、現代人の私たちよりも進化していた、または容積が違っていたということを物語っていると考えることもできます。
仮に、後頭部が張り出している形が単なる美的な感覚だけから生まれた姿だったとしても、脳が大きければ賢い王族になれるのではないかという考え方でも、アマルナ時代の王族と、彼らに深く関わっていた神殿で働く神官たちの世界観は、〝頭〟に関して普通ではない〝何かの意味〟を見いだしていたことは変わりません。
この石盤の王女の姿も典型的なアマルナ様式美で、頭は後頭部が張り出し、首、手と足は細く、下腹も丸く膨れ気味に描かれています。
完成することなく発見されたライムストーンのキャンバスにはほぼ一本が木のように見える下書が表す優雅な線の流れ、そして部分的に彫り込まれ立体化の初期段階を見ることが出来ます。
調理された鴨を食べているプリンセスの姿は数多くの書の中で表されていますが、食べ物は人物の前に置かれたテーブルの上に山積みに描かれるのが一般的で、食べている姿を描いた場面は珍しいと解説されています。
アマルナの南のアニィの墓から発見された合計で5つの奉納ステラエ(石碑)の内の一つで、王家の書記官、真実に愛された者、二つの土地の統治者の書記官の祭壇、そして執事と記されています。
この石盤で描かれている光景は、アクエンアテン王から寵愛によって贈られた名誉のゴールドの数々を首回りに着飾り、祝典から馬車によって帰って来る場面です。
新王国時代でチャリオットは現代でのラグジャリーなスポーツカーに相当するもので、王族とエリートだけに与えられた特権でした。
石碑に描かれている馬車の運転手の頭もアマルナの様式美に沿って後頭部が張り出している形で描かれています。
このステラの中で興味を引かれたのは、アニィの頭の上に乗っている小さな白い塚のような帽子で、高官の授与式の場面でも描かれ、来世への旅を描いたアニの死者の書の中でも同じように白い塚の帽子を被った場面があります。
ここで表されている〝塚 ベンベン〟の象徴は創世神話に関係するもので、アトゥム神が混沌の海の中から顔を出した時の姿を表したもので、神話の中ではアトゥム神の塚は後に古都ヘリオポリスのピラミッドへと変容します。
頭の上に描かれる白い塚の姿は〝頭とアトゥム神の創世神話〟が関係していることを示唆しています。
これらのアマルナ芸術を描き出した芸術家たちの村は、アクエタテンの街の東側にある王族の墓と高い位の人々の墓の近くで、最盛期には310人が住んでいたとされ、さらに古い時代のラフンとデイルエルメディナの芸術の村と同じように数多くの称賛を得ています。
会場の中心に父アクエンアテンの巨像の隣に立っていたのが青年王ツタンカーメンの柱像です。
この柱像は彼の後に王位に就いた高官あがりのアイ王と、軍人あがりのホルエムヘブ王の葬祭神殿の遺跡で発見されたもので、ベルトにはアイとツタンカーメンという名前の上にホルエムヘブの名前が刻まれています。
ツタンカーメンが王位についたのは9歳か10歳の時だとされ、その若かった死は19歳だと判定されています。
黄金ファラオの中で最も有名なツタンカーメン王の元もとの名前は、アテン神信仰の父から授かったトゥトアンクアテン〝アテン神の生きた姿〟でしたが、即位した後にトゥトアンクアムン〝アムン神の生きた姿〟に改名しています。
アテンの部分をアムン(ラー神)に変更したということです。
王位を継承した二年後には父のアクエンアテンが変えたアテン神のみを奉る一神教から再びアムン神を奉る多神教へ戻し、アルマナに遷都された首都を再びテーベへと再遷都しました。
近年まで彼の死亡説は陰謀による殺人説など様々な憶測がありましたが、DNA鑑定やCTスキャンによる映像から、元もと弱かった足を骨折した後にマラリアに感染して死亡したという説が最も有力になっています。
2011年に発表されたスイスの研究機関iGENEAによるツタンカーメンの遺伝子(haplogroup R1b1a2)の研究では、イギリス人とスペイン人の約70%の男性、フランス人の約60%の男性はツタンカーメンの遺伝子グループと関係していると発表しました。
このR1b1a2の初期のヨーロッパへの移民は紀元前約7000年だと推定されています。
黄金ファラオの宿命
ツタンカーメンのファラオとしての宿命は、その他のファラオ達とはかなり趣が違っています。
戴冠してから約10年で崩御するという速すぎた死は急な埋葬に繋がり、選ばれた墓の位置はその他の偉大なファラオ達とは違っている変則的な場所で、その大きさも小さく、内部もほとんど装飾されていません。
壮大な葬祭も行われなかったと解説されていました。
一般的に代々のファラオ達は自分の墓とは別に、死後も神官達によって儀式を行い続ける葬祭殿を建立するのが習わしでした。
ツタンカーメン王の葬祭殿も王家の谷の中にある墓から約1マイルほどの、彼の祖父にあたるアメンホテプ三世のパレスと神殿から程遠くない場所で建設途中でしたが、19歳で崩御したツタンカーメン王は自らの葬祭神殿の完成を観ることはありませんでした。
そして未完成だった彼の葬祭殿とレリーフ、石像などは次に戴冠したアイ王とホレンヘブ王によって流用されたと考えられています。
多神教からアテン神を奉る一神教へ宗教改革した父、アクエンアエンから始まるアマルナ時代は、父の次に王位について二年と一ヶ月だけ統治した女性のファラオ・ネフェルエフェルアテン、次にアクエンアテンの弟または息子だったと思われているスメンクカーラーが王位を引き継いでいます。
その後にツタンカーメンが即位しますが、大胆な宗教改革を行って神々の石像を破壊してしまった父の影響を受けてしまったのか、一族の四人の名前はファラオのリストから消されていまい、アメンホテプ三世の後の統治者は、ツタンカーメンの後を継いだホルエムヘブ王として刻まれます。
アルマナの一族は古代エジプトの歴史の中で存在しなかったファラオ達となったのです。
歴代のファラオ達の墓は墓荒らしによって殆どの埋葬品が奪われていますが、ツタンカーメンの墓が荒らされずに無事に発見された理由は、一族の名が歴史から消され、一般的ではない場所に埋葬されたからだと言われています。
続く
☆
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