パラダイムシフト①価値観の崩壊

さて、2010年も始まってしまい、シアチョル紀行も、ハワイのお正月も終って、これから真面目にブログを書こうと思っております。

ブログを始めて数年になりますが、ワタシの場合、ブログで自分の考えていることや、伝えたいことを細かく書いて表現するという意識がホボ無いんです。


少し前に友人に言われたことがあります。

「ブログの読者の皆さんは、まかチャンが何を考えているとかを知りたい、読みたいんだから」

そ・・そうなのか・・・読者はそんなことが読みたいのか!?とワタシは異常に驚いたのです。

私が何を考えていて、何をどう捉えているのかを書くのはワタシにとっては難しいテーマだったりします。

それは私の脳みそが多次元思考だからです。

肩書きだって、グラフィック・デザイナー、著述家、小説家、チャネラー、ヒーラーと複合体なので、統一性がホボ無きに等しいと思います。

これに写真家というタイトルが加わって、さらに音楽とか映画なんか制作し始めたら「この人いったい何なの?」的なことになってしまうと思います。

ワタシは基本的に「好きな分野で好きなことに専念していれば良いでしょ」的な考え方の持ち主で、この基本概念は今でも変わっていません。

結果的に見て、パラダイム・シフトで
スピリチュアルな価値観が総崩れしても、そこに新しい興味を見いだしてしまったので、別な意味で前よりも面白くなって来たわけです。

第一に、比較的に覚めやすい私の性格で「無料!一斉遠隔ヒーリング」を半年も続けていること事態が変なのです。

そんな脳みそ構造なので、ブログを書いていても話しがスグに脱線してしまうし、真面目に物事を書こうと思うと照れてしまってオバカなことしか書かないし・・・得意げ

さらには真面目に書いたら難しくなりがちだし・・・。

そういう理由でブログでテキスト的なことや、先生的な視点で物事を書くことに対して異様な抵抗があるのです。

私にとって、何かを伝えるためにガイドブックや小説などの本を書くことや、人前に立って教えたり話しをすることと、ブログを書くことは全く別物なのです。

さらにはブログが活動内容のマーケティングツールとしてコマーシャル的な内容になるのも好きではありません。

しかし、それなりでも、ソコ・ココの要所では、ツボ的なことは書いているツモリなのですが、そこをワザと明確にハイライトしないので、読み飛ばしてしまうことも多々あるのかも知れません。

ということで、これからしばらくは2009年を振り返って、その1年の中で思ったこととか、気づいたことを、やや真面目に書いてみますべーっだ!


(続く)




イキナリですが、ワタシにとっての2009年はパラダイム・シフトだったとしか言いようがありません。

それはこの1年で考え方が飛躍的に変化したからです。

ハッキリ言ってしまうと、従来のスピリチュアル的な考え方とは別の方向を向いている感じです。

もうすでにワタシのスピリチュアルな観点はロボット工学的な雰囲気になりつつあります・・・ロボット

このロボット工学的な事柄は「人間取り扱い説明書」に関する領域の内容で、このテーマはまた後に書いてみます。

一般的な人達からの観点で捉えると、私のスピリチュアルな経験というのは多分に理解の範囲を超えていると思われがちだったりもします。

「聖なる谷」に書かれている事柄で驚かれてしまうのですから、それ以降の体験なんかを書いたらどうなるのでしょう?

更に追い打ちで、読んでビックリ玉手箱的な話しの「ブルードルフィン」が目出たく出版された日には、読者がどう反応するのかを考えただけで出版計画が遠のいてしまいます。

それくらいの自称があるほどに、私の世界観というのは一般的ではないのです。

先日「友人から変わった人のブログだよ」と紹介されてやって来た読者の方がいました。

シアトル遠征から戻って来たばかりの時には友人から「あんたロボットみたいやね」とも言われてしまいました・・・・むっ

どこをどういう意味で「変わっている」、「ロボットみたい」と表現されたのかは不明・・・。

チャネリングをしている時に人間受信機となることに専念し始めると、人間ロボット的な波動に変わることも多々あるので、ロボット的だと言われても変な感じはしませんが・・・シラー

話しをパラダイム・シフトに戻して・・・。

個人的なパラダイム・シフトは数年前からスデに始まっていたのですが、決定打が来たのは今年の夏でした。

昨年の6月に「聖なる谷」が発刊され、後追いで「スフィア」のクラスを始めた頃です。

そして「無料!一斉遠隔ヒーリング」が始まり、価値観の崩壊を止めることは不可能に・・・。

更に追い打ちでシアトル遠征の間にもパラダイム・シフトが派生していました。

スピリチュアルな事柄に興味を持ち始めて20年近くが経ち、1991年にペルーへ行ってからチャネラーになり、人に教えたり、伝えたりする立場になっていましたから、それなりの自負もありました。

しかし、そんなのはこの半年間で総崩れです得意げ

それらの
20年近くのスピリチュアルな体験が現在の位置へ引っ張って来てくれたわけですが、それまでの経験というのは、ほんの序の口だったのです。

「わたしは何も知ってはいなかった・・・」というのが正直な気持ちむっ

トドの詰まり「まだまだ入り口にしかいないのだ」ということが明確に分かってしまったわけです。

自分が入り口にしか立っていないのが分かってしまった時は深淵な感じがしました。

更には、こんなに深遠で奥深く、想像していた以上にコンプレックスなテーマなのに、簡単にスピリチュアルな事柄なんて書けません・・・的な感じがするわけです。

それだけ今まで築き上げて来た価値観の崩壊から来るパラダイム・シフトは個人的に驚愕的だったのです。

価値観の崩壊以前は結構ノホホンと気楽に構えていたのですが、シフトが始まった時は、そのあまりの勝手の違いに驚いてしまいました。

第一に、自分がヒーラーになるなんて考えてもいなかったんです。

頼まれればヒーリングも行っていましたけど、そんなに好きではなかったし、「私はヒーラーです」的な自負などは皆無でした得意げ

今から考えると、チャネラーになるという経緯は、ヒーラーになるための前段階にすぎなかったというのも驚愕的でした。

これは全く予想もしていなかった成り行きだったので、ビックリしてしまったわけです。

私の中にはチャネラーとヒーラーの境界線というのが存在していて、この二つが一緒になるというアイデアは有りませんでした。

チャネラーというのは情報提供に関わり「チャネリングする人」。

ヒーラーというのは肉体的な癒しに関わり「ヒーリングする人」。

この二つが合体しなければならない必要性、必然性を過小評価していたからだと思います。

チャネリングはお得意分野ですから、多くの謎は抱えつつも、それなりに答えを見つけ出しては自分なりの解釈を得ながら構築して来ました。

ヒーリングに関しては様々な書籍も読んで勉強もしたし、実践もして、それなりの答えや結果も得てきました。

しかし、何かが噛み合ない状態というか、それぞれのヒーリングのメソッドを並べて眺めてみた時に、どれも何かが足りないように思えていたのです。

チャネラーという前提で
ヒーリングを行っていたら、経験値が上がるにつれ、それ以上の疑問符が湧き出る状態です。

世の中で出版されているスピリチュアル、ヒーリング系の全ての書物に目を通しているわけではないですが、主要なものは読むことは続けています。

それぞれのメソッドの教科書の中で説かれている構造は理解出来ました。

しかし、そられに総体的な互換性を持たせようとすると難しいのです。

更には、読んできた本に書かれていないことに対面し始めたからです。

何なんですか? こんなのどこにも書かれてないぞォ~!?

という経験が増えて行くんです。

私の周囲にはスピリチュアルな能力に長けた方々も多くいます。

そんな友人達に聞いても分からないことも多々あったりするわけです。


ワタシの脳みそは基本的に神秘的なことが嫌いなので、明確にしたいのです。

特に教える際には、不明瞭さが多いと非常に教えにくいとうのもあります。

ひとたび脳みその中で疑問符が上がって来てしまうと、ある程度の概算的な回答が得られるまで気持ち悪い感じがするのです。

これは完成してないジグソーパズルに挑戦している感覚に良く似ています。

ワタシの場合は一度始めたら完成させなかれば気が済まないというか、気持ち悪いわけです。

完成品のイメージに向かってパズルの断片を組み合わせる楽しみです。

パズルはイメージの大きさが大きくなればなるほど複雑さが増してゆきます。

このパズルを完成させる作業のどこが面白いのかと言われたら、それは完成させるまでの行程だとしか言いようがありません。

5歳だった頃に赤痢と誤診されて隔離部屋に入れられたことがあります。

赤痢を煩っている患者と一緒に生活していたわけです。

ある時に父親と兄が見舞いを持ってやって来ました。

それは
ネジで進む灰色のサイでボーリングが出来るプラモデルでした。

プラモデルの醍醐味は、部品を切り離して説明書通りに作り上げることです。

しかし、その箱を開けたら、中から出て来たのはスデに完成されたプラモデル。

箱を開ける前まではワクワクしていたのに、開けた途端に強烈にガッカリしたことを思いだします。

父親と兄は子供の私だと作り切れないだろうと思ったのかも知れません。

または完成品でも喜んで楽しむだろうと思ったのかも知れません。

これは料理をするのが楽しめる人と、料理を作るのよりも、出て来た料理を楽しみたい人がいるのにも似ています。

何かを作り出すことが好きな人もいれば、作るという行程よりも、労を費やすことなく完成された一品を楽しみたい人がいるのと同じです。

これに人生という道のりを当てはめてみると、誰かが自分の人生を完成させてくれるわけではありません。

一般的に、完成された人生はオーダー出来ないわけです。

本人が自分の人生に対して積極的に参加しなければ、人生そのものは参加しがいの無い内容になってしまうでしょう。

世の中にはパズルを楽しめる人もいれば、そうでない人もいます。

何かを作る楽しみを途中で投げ出してしまったり、最初から味わえない人もいます。

クロスワードに関しては、すでに回答が書き込まれているクロスワードを求める人はいないでしょう。

スピリチュアルな事柄で例えると、チベットの僧侶たちが色の着色された砂で、床に巨大な曼荼羅を描き続けるのにも似ているかも知れません。

長年かかって砂の粒で描かれた曼荼羅は、その完成と同時にひと拭きで一気に掻き消されてしまうのです。

消されるために描き続ける曼荼羅。

パラダイム・シフトを通る際に幸いだったのは、曼荼羅が吹き消されてしまう前に、次に手がけるであろう曼荼羅の構図とか、その美しさ、奥行きを垣間見せてくれたことかもしれません。

(続く)

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