2010/09/03

私たちの「意識」というもの


第三章 意識の構造

私たちの「意識」というもの  


この意識という言葉も日常的には頻繁に使っているわりには、分かるような分からないような、とても広い意味合いを持つ言葉です。

この「意識」という言葉が指す意味は、三省堂の大辞林によると次のように定義されています。

いしき 1 【意識】(名)スル

(1) (ア)物事に気づくこと。また、その心。感知。知覚。「―を集中する」「人の目を―する」

  (イ)(混濁・無意識などに対して)はっきりした自律的な心の働きがあること。自覚。覚醒。見当識。「―を失う」「―が残っている」

(2)状況・問題のありようなどを自らはっきり知っていること。「―が高い」「罪の―」 

(3)〔哲・心〕〔英 consciousness〕

  (ア)思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など、客観的なものに対する。現象学では世界を構成する超越論的自我の働き、また唯物論では存在に拘束される観念一般を意識と呼ぶ。

   (イ)単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。また、その作用・内容など。自己自身を対象化する対自 的・反省的働き、人格あるいは自我による統一・自律、一定水準の明晰(めいせき)さなどによって規定される。自己意識。

(4)〔仏〕六識の一。感覚器官による眼・耳・鼻・舌・身の五識に対し、心の働き、精神の働きのこと。第六識。  


これを全般的に捉えてしまうと、精神的な心の動き、自分と他人を分けて考える力、そして自分が自分であるということに気づいている状態、今の自分や取り巻いている環境や状態をはっきりと認識できる状態のことを言えると思います。

そして事故などに遇ったり、手術の時に麻酔を打たれて「意識を失う」というように使われます。

また寝ている状態を無意識の状態と呼んだり、また分類の仕方によっては夢を視ている時も無意識の状態だと言われることもあります。  

私たちは起きている時に「自分自身である」という明確な自意識を持っていますが、実際のところはどうなのでしょう?  

一体どれくらいの人達が日常生活の中で「自分の意識」というものを明確に自覚しているのでしょうか?   

時と場合によっては「無意識的な言葉遣いをする」とか「無意識的に行動していた」というような言い方もされます。

車を運転している時でも、意識的になって注意深く運転している場合もあれば、何か他のことに注意が行って、無意識的な運転をすることもあります。  

私たちの言動というのは、頭で考えて意識的に行われたり、考えることなく無意識的に行われたりするということです。  

この意識の働き方を考えてみると、私たちが起きている時でも、意識的である状態と、無意識的である状態の二つがあるということになります。  

更に私たちの意識の状態というのは、その時の感覚の動き、感情の状態、そして持ち備えている観念によっても大きく左右されます。  

例えば肉体的に酷い痛みを感じている時には明晰な意識状態を保って仕事をすることは出来ないでしょう。

このような場合は意識が痛みの方へ動いてしまうので、その他のことは考えにくくなるのです。

肉体的な痛みの方が意識よりも力強いということです。  

また何かの出来事で感情が高ぶっている時も同じように冷静な行動はしにくくなります。

これは感情の力の方が、意識の力よりも大きいということを示しています。  

観念というのは、今まで培って来た考え方の基礎となる価値観や考え方ですが、人によって観念の在り方は違います。

そして誰かに観念的なことにチャレンジされた場合には、自分の持っている観念、信じていること等が崩れないように感情的になるのが普通です。  

これらのことを考えてみると、私たちの意識というのは、非常に不安定なもの、様々な事柄から影響を受けやすいものだということが見えて来ます。  

それでは次に精神世界的な考え方、超越心理学的(パラサイコロジー)な観点で「意識」というものを捉えてみましょう。

続く・・・


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