2010/08/25

サイキックな視覚は誰にでもある


一般的にサイキック的な視覚でものを捉える能力は特殊なもので、限られた人しか出来ないと思っている人がほとんどでしょう。

スピリチュアルなことを勉強していて、サイキック的に視ることを望んでいる人から良く聞く言葉があります。

それは「私は視えないんです」と言い言葉です。

また「どうすればサイキック的にものが視えるようになるのですか?」と聞かれることも多々あります。

私の観点からしてみると誰でも視える能力があるように視えるのです。

数え切れない程の「視えない」「視えるようになりたい」という人たちに会って来た経験から、それらの人たちの全体像を霊的な視点や感覚を使って観察する癖がついてしまったのです。

私のところには視える人たちも来ますから、私自身も含めた「視える人たち」と、彼らとの比較対象として「視えなない、視たい人たち」との違いを探し始めました。

その両方のタイプの表す思考の動きとか、目の動きとか、物を見ている時の目の周辺の波動の動きとか、脳波の状態とか、脳の周辺の波動の動きを観察したのです。

視える人たちを超感覚で観察している間にいくつかのことが分かりました。

その中で最も一般的なのが「視ている時の目の動き」です。

視える人の大半は、普通の視点を霊的な視点に切り替える時に、目の動き、眼球の位置を変化させます。

中で最も頻繁に観測できたのが、意識を「視るモード」に切り替える時に、眼球を右上45度近くに動かすことです。

視える人の全てが眼球を右上45度に動かすのかと聞かれたら、そうではありません。

場合によっては真横に動かす場合もあれば、正面やや下向きの場合もあれば、左下45度などの場合もあります。

次に視ている時の「眼の焦点の動き」を観察し始めました。

視るモードに入る時には、眼の周辺の波動が明確に変化するのです。

そして瞳の焦点が、ズレるような、物理的にどこにも眼の焦点が合ってないように見えるのです。

そんな観察をし続けるのと同じように、視えないと言う人たちと会って話しをしている時に、彼らの眼球の動きや意識の動き方、眼の周りの波動の変化の仕方などを観察し始めました。

その結果に分かったことは「視える人」と「視えないと言う人」の間には、そんなに大差はないということです。

多くの人はサイキック的にものが視えるというアイデアに対して、とても大きな思い違いというか、勘違い、誤った認識を持っています。

「私は視えない」「視えるようになりたい」という人たちも、すでに視える人たちが霊的な視覚を駆使する時に使う機能とほぼ同じ機能を日常生活の中で使っているのです。

視える人も、視えないと言う人も、同じように基本的に持ち合わせている機能を使っているのが分かった時に、その違いを考えました。

「私は視えない」という人たちは「視える能力」が無いのではなく、その使い方、切り替え方、捉え方が良く分かってないだけの話しなのです。

実際には「視えない」のではなく、「視ていない」のです。

これはコンピューターにソフトウエアが搭載されているにも関わらず、そのソフトを立ち上げたことがない、立ち上げてみたけど、使い方が分からないから使ってないという状況と同じものです。

前にも書きましたが、私たちは眼を通じて映像を取り込みますが、実際には脳裏で映像を受け止めます。

目を開けてものを眺めることが出来るのであれば、サイキック的な視覚を使って視ることも可能なのです。

世の中の大半の人は目を開けたまま何かを脳裏で思いますことが出来ると思います。

また、目を閉じて脳裏で何かの記憶を思い描くことも出来るでしょう。

そして寝ている間に夢の一つや二つは視たことがあるでしょう。

これらのことが可能なのであれば、「視る能力」はすでに備わっているのです。

ちゃんと勉強すれば誰でも比較的簡単に視えるようになります。

続く・・・ 得意げ

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