昨日の名前の分析結果をやってみて考えた。まぁ元々そのようにして作り上げられた解析システムなのか皆目検討もつかないのであるが、真偽がどうのこうのではなく、心に引っかかった所を重点的に、出来るだけ客観的に分析してみる。
本名で解析してみると以下の結果になった。
71%は 運 で出来ています
23%は 回路 で出来ています
4%は 気の迷い で出来ています
2%は 理論 で出来ています
71%が「運」というのは正直に言って開いた口が塞がらなかった。
通常では「運」というと、ラッキーなのか、ラッキーではないという事か?と捉えるのが普通なのであるが、最初に感じたことは、そういう意味での「運」ではなくて、「運命」的な「運」のことだった。
確かに私の人生はこの「運」という代物で出来ている。
これは生まれる前から始まっているもので、そうなると「運」としか言いようが無い。
まぁ総ては結果論なのであるから、とどの詰まりは「卵が先か、鶏が先か?」の問題なのであるとは思うが・・・。
両親はどちらとも北九州に産まれた。
最初の運というのは、この生まれた場所である。
随分と昔に聞いた話しで、それを知った時には正直に言って考えるものがあった。
母が経験した第二次世界大戦中の疎開の話しで、長崎に落とされた核爆弾は、本当は私の産まれ故郷の小倉に落ちるはずだった。
計画当時の小倉上空の天候が悪かった為に、急遽、長崎に予定変更されたのである。
もし仮に小倉に核爆弾が落ちてたら、多分私は今の両親の元に産まれていない。
次に死に損なったのは確か4歳くらいの時である。
子供の私は何故か突然に隔離病棟に入れられてしまった。
当時の町中にあった小児科の病院の一室の中にあった薄暗い手術室の中に閉じ込められて、ステンレスの手術道具を乗せるような台の下に隠されてしまった。
そしてさらに大きな病院に移されて、他の大人の患者さんたちと一緒にされて隔離されてしまった。
子供だったら何で隔離されてるのか皆目検討も付かなかったのであるが、大人になって母が言うには「赤痢」で隔離されてしまったそうなのである。
さらに恐ろしい事に、赤痢患者の隔離病棟に入れられていたのであるが、精密検査の結果に「赤痢」は誤診だったのだそうである。
次に死に損なったのは6歳頃の時。
休みになると一人でバスに乗って母方の田舎に疎開していた変な子供だったのであるが、交通事故にあって、足を轢かれてひっくり返って後頭部を打って近くの病院に運ばれた。
そのときの記憶は一切無い。
目覚めたら病院の手術室の中で、頭蓋骨にドリルで穴を開けられて、脳内出血していた血痕を取り出された所だった。
(ここいら変から少しお馬鹿になってしまったのかもしれないと密かに思っている)
次に死に損なったのは20位の時。
突然の意味不明なパニックアタックに襲われて、死にたくも無いのに、もう少しで川の中に飛び込んでしまう所だった。
(今でも原因は分からない。確か船場という名前の町の橋の上だったので、どっかで何かを拾ってしまって憑依されたのかもしれないが・・・)
次に死に損なったのは会社のお使いでゲンチャリを運転していたら、突然にブレーキロックが掛かって空中に投げ出されて、間一髪でトラックに轢かれずに助かった。
この時はお空の上の祖父が私の身体を浮かせてくれて助かった。
次に死に損なったのは雨の高速で同じくブレーキロックがかかって車がスピンして、壁に激突しそうになったが、ギリギリ10センチくらい手前で奇跡的に止まったので助かった。
次に死に損なったのは25位の時。
原因不明の高熱に侵されて緊急入院したら肝炎だっつ〜事で、このまま行ったら死にますと大病院の医者から脅された。度重なる血液検査の結果でも原因不明。
次に死に損なったのは数年前に、やはり原因不明の高熱に侵されて救急病院へ。
運び込んでくれた友人曰く、心臓停止寸前の心拍数の低さに「もう少しでピーっと心臓が止まってしまうかと思った」らしい。
次に死に損なったのは、ワイキキ史上最悪の悪夢となった「ラフ・ウォーター」という遠泳大会に参加して溺死寸前になった。
次は同じく数年前に、再び原因不明のパニックアタックに襲われて、会社の非常階段から飛び降りそうになったが食い止めた。
今でも、下手をしたら死んでもおかしくないのにまだ生きている・・・。
ザッと考えただけでも、これだけ出てくるのだから、私は運が強いというしかない。
しかし私は考えた。これは運が良いのだろうか? それとも悪いのだろうか?
考え方によっては、悪いから色んな事が起きて、反転して救われるのだから、相殺されてしまっているのではないだろうか?
カルマを返しているのか、返されているのか良く分からん・・・。
運が悪いと災難に遭うのが普通なのだが、逆に考えると、災難に遭わないのが運が良いという事なのではないか?
という事で、私の最近の思考形態は「運に仕切られている」派になりつつある。
ここまで来ると「運に生かされている」と思えるようになるようである。
そう言っても、日々の鍛錬と修行、周囲の人々の支援などがなければ運も尽きてしまうので、日々精進する努力は忘れないようにしているのであるが、どう分析しても「まな板の鯉」状態のような感じがするので、恐れおののいてピクピクとまな板の上で跳ね回っていても仕方がないので、潔くまな板の上に鎮座しているわけである。
いや、鎮座しているという表現は少し違うかもしれない。
まな板の上に横たわっているといった方が正解かもしれない。
71%が「運」で出来ているのであるから、多分、普通よりも良い方であるに違いないので、見えない方々にも、友人知人にも感謝している。
「まな板の上の鯉」状態でいるわけだから、いつの日か必ず鯉コクにされてしまう日が来るのであるが、それはまだまだ先のような感じなので、しばらくはまな板の上で悟りを開くことにする。
鯉こくになって神様のスープとして差し出されてしまう私。
一体どんな味がするのだろうか・・・。
やはり味噌味なのだろうか・・・。食べたら美味しいのだろうか???
でもどうして「まな板の上の鯉」なのだろうか? どうして「鯛」とか「鱸」とか「鮭」ではいけないのだろうか?
ちょっと昔話を紐解いてみる必要があるかもしれない。
コメント
dd 2006年05月26日 15:44
やっぱり味噌味がいいです。でもそんなに数年おきに死にかけてたらそれって日常だよね。死にかけに強いヤツって感じかな?
Tarot Reiko 2006年05月26日 16:04
しかしそれだけ何度も死にかけた人も珍しいよね、それでもまだ生きているのは強運の証拠だあ!というか、そういう目に合うたびに、何かがレベルアップしてるように私には思えますけれど。
モンクシール星人 2006年05月26日 16:39
バター味噌味風っつ〜のはどうでしょう。
ちょっとフレンチ風に飾りつけされちゃうっつ〜のは?
もういい加減に死に掛けるのは止めて欲しい感じもするけど・・・。
死にかけに強い私・・・。良いのか悪いのか・・・。
Tammy 2006年05月26日 17:46
はじめまして!ですが、Tarot Reikoを通じて大変お世話になりました。フラもカヒコを習い始めて、秋のホイケではカヒコを踊ることになりました。母もなんとか元気で透析に通っています。ここ最近は腕の痛みがありましたが、足湯が功を奏したのか、痛みも和らいでます。
しかし、類稀な運ですよね。映画になりそうな人生・・・
モンクシール星人 2006年05月26日 18:07
あらまぁ、はじめましてぇ。
フラカヒコですねぇ。楽しんでくださいねぇ。
0 件のコメント:
コメントを投稿